BÀI ĐỌC SỐ 30 – N2

欧州の研究チームが、5万年前の装身具をスペインの洞窟

今の人類が欧州に広がったのは約4万年前。ということは、入れ替わるように衰勢となった①ネアンデルタール人が貝細工(注4)を残したことになる。絶滅の理由は知能の未発達とされてきたが、実はそこそこ知的で、おしゃれだったのではないか。

狩猟のための石器と違い、生存に関係のない装飾品には遊び心がのぞく。動物の骨や歯、木の実なども使ったことだろう。森や浜で、あれこれ見つくろう姿が浮かんでくる。

さらには顔料である。高橋雅夫氏の『化粧ものがたり』によると、古代人にとってオレンジ色は②特別な意味を持っていた。それは、恐ろしい闇を追い払ってくれる朝日の輝きであり、暖をとり、獲物の肉を焼くたき火の色だった。喜びと幸せの色だ。

水面に映る己の姿を見ながら、貝殻で飾り、顔や体を祝いの彩りに染める。彼らが生存競争に敗れたのは、足りない知恵のせいではなく、あふれる優しさが災いした(注5)のかもしれない。驚きの発見に推論を重ねて、あるところからは想像の一人旅。考古学の愉悦(注6)である。

 

(注1)   貝殻:会の外側に硬い部分

(注2)   顔料:物に色をつけるために液体や粉

(注3)   おぼしき:思われる

(注4)   細工:工夫して作った物

(注5)   災いする:悪いことの原因となる

(注6)   愉悦:楽しいこと

 

 

7 ①ネアンデルタール人が貝細工を残したことになると考えられる理由は何か。

1 ネアンデルタール人は5万年前に絶滅したから。

2 今の人類は4万年前には知能が未発達だったから。

3 ネアンデルタール人は知能が未発達だったから

4 今の人類は5万年前にはいなかったはずだから。

 

    ②特別な意味とはどういう意味か。

1 遊びの気持ちを表す意味

2 心の優しさを表す意味

3 光や暖かさを表す意味

4 生活の豊かさを表す意味

 

    筆者は、ネアンデルタール人の知能についてどう教えているか。

1 今の人より知能が高すぎたために生存競争に敗れ、絶滅してしまったのだろう。

2 その知能の水準についてわからないことが多く、研究が更に進むことが期待される。

3 今の人よりおしゃれで性格が優しかったのは、知能が低かっただろう。

4 知能が未発達だったと言われているが、思ったより知的だったのではないか。

BÀI ĐỌC SỐ 29 – N2

おしゃべりに使うことばには、流行語と言われるものがある。若者同士のおしゃべりには欠かせないものである。流行語を使うことによってしか伝えられない彼らの気持ちがある。おしゃべりについて考えるとき、彼らのことばを無視できない。

日本人の大学生にも日本語学などを教えている手前、彼らとのおしゃべりは、私にとって研究のネタ(注1)の大事な取材(注2)の場でもある。

しかし若者のことばづかいについて、いろいろ①批判的に言われることがある。「ことばの乱れ(注3)」とか、「日本語を破壊するもの」とか。

ことばは変化することが本質である、と昔の偉い言語学者が言っている。変化するけど、誰かが変えようと思っても、変えることはできない。逆に、変化させまいとしても、そのままの形を保たせることは決してできない。

②そうであれば、彼らのことばを一方的にダメなものとして見るのではなく、ことばの面白さを表すものとして考えることもできるだろう。

 

(注1)     ネタ:材料

(注2)     取材:現場で情報を集めること

(注3)     乱れ:正しくなくなること

 

1 若者のことばが①批判的に言われるのはなぜか.

1 日本語を変えようとしているから。

2 昔のままの日本語と違うから。

3 気持ちをうまく伝えられないから。

4 誰もことばを変えられないから。

 

2 ②そうであればとはどういうことか。

1 ことばは変化させようとしても変化させられないのであれば、ということ

2 ことばは変化させないでおくことはできないのであれば、ということ

3 ことばはそのままの形を保たせるべきものなのであれば、ということ

4 ことばの変化は違い言語学者が作り出すものなのであれば、ということ

 

3 筆者は若者の使う流行語について、どのように考えているか。

1 日本語を壊す可能性があるので、よく考えて使わなければならない。

2 変化が速く、すぐ消えてしまうので、急いで研究しなければならない。

3 ことばというものは変化するものだから、その様子を楽しめばいい。

4 若者が大人になれば忘れられる一時的なものだから、無視してよい。

BÀI ĐỌC SỐ 28 – N2

言うまでもないことだが、話を狭く学力だけに限って、それが高いのと、低いのとではどちらがいいか,という問い方をすれば答は明白である。それは高いほうがいいに決まっている。テストをやって、一○○点を取るのと、八〇点取るのとではどっちがいいでしょうと言ってるのと同じだ。それは一〇〇点を取るほうがいいのであり、それが可能かな、ということを調べるためにテストってものがあるのだ。

しかし、問い方を変えれば答はサンプルではなくなる。テストで一〇〇点を取る子と、八〇点しか取れない子では、どちらがいい子だろうか、と考えてみるのだ。

それだと、いちがいに(注)①答えられない、という答になるはずである。

どちらがいい子か、という総合的評価ならば、テストの結果だけでとてもではないがあれこれ言えるはずがないのである。

それどころか、一〇〇点を取る子と、八〇点を取る子では、どちらが頭がいいだろうか、という問いにしてみても、そう簡単には答えられない。そのテストにおいては、一〇〇点取った子のほうが成績がよかった、というのは現実だが、頭がいいかどうかはそれとは別のことなのである。

そうは思えない、という人がいそうだ。テストでいい点を取ったのだもの、それは学力が上だということであり、そのことをもって頭がいいと認めてやるしかないじゃないか、と思う人が。

②そういう人に私が聞いてみたいのは、あなたは、学力ってものを知力のことだと思っているんじゃないですか、ということだ。

(注)いちがいに:一度にまとめて同じように

 

3 ①答えられないのはなぜか。

 

1 テストではその子についての総合的なことがわからないから。

2 100点と80点の差は学力を決める時あまり大きな違いではないから。

3 テストの結果というものは、ひとことで説明できないものだから。

4 テストで100点を取るほうがいい子であると決まっているから。

 

4 ②そういう人はどんな人か。

 

1 テストの点がいいことは頭がいいことだと認められない人

2 成績がいいことと頭がいいことが同じことだと思えない人。

3 テストでいい点を取ったことがあって、頭がいいと認められた人

4 テストでいい点を取っることが頭がいいことを意味すると思う人

 

5 この文章で筆者は言いたいことは何か。

1 成績がいいことは学力があることを示している。

2 成績がいいこと頭がいいことは別のことだ。

3 テストの点がいいことと成績がいいことは別のことだ。

4 テストの点がいいことは頭がいいことを示している。

BÀI ĐỌC SỐ 27 – N2

皆さんは寄付をしたことがあるだろか。異常気象で食べる物が不足して困っている人や、地震で家を失った人のためにわずかながらもお小遣いから寄付した経験を持つ人は多いだろう。その寄付に対する考え方に、今、新しい働きが起こっている。

ある会社では、社員食堂で低カロリーの定食を食べると代金の一部が寄付金となって途上国()の子供たちの食生活を支援する、というシステムを取り入れている。社員としては体調管理につながるだけでなく、人を助けることができ、会社としては社員の健康を支えながら社会貢献ができるので、社員にとっても会社にとっても一石二鳥というわけだ。

また、「寄付つき」の商品を販売する企業も増えている。特定の商品を買うと売り上げの一部が寄付されるというもので、他の商品と比べるとやや値段は高いが、商品を買えば、同時に寄付できるという手軽さが消費者に歓迎され、売り上げを伸ばしているという。

これまでの寄付はわざわざ募金の場所へ足を運んだり、銀行からお金を振り込んだりしなければならないものが多く、社会貢献に関心はあっても寄付をするのは面倒だと実際の行動には移さない人も少なくなかった。そこに目をつけたのが新しい寄付の形で、これまでと比べ手軽に寄付できるようになり、社会貢献がしやすくなった。さらに、企業にとっても自社のイメージの向上や売り上げの増加などメリットの多い取り組みとなっている。

このように寄付は慈善のためというばかりでなく、寄付をする側にもプラスになる活動としてとらえ値され始めている。

 

(注)途上国(とじょうこく)

 

7 社員食堂で低カロリーの定食を食べることがどんな良い結果についながるのか。

1 社員の健康が守られ、社会の役に立つことにもなる。

2 社員に定食代の一部が返金され、寄付をするす余裕ができる。

3 会社で寄付が日常のことになり、食生活に対する意識も高まる。

4 会社は社会の役に立つことができ、食堂の経費の節約にもなる。

 

8 この文章は、これまでの寄付にはどのような問題があったと述べているか。

1 寄付をする方法があまり知られていない。

2 寄付をすることが社会的に評価されにくい。

3 寄付をするのに手間がかかるシステムである。

4 寄付をするためには経済的に余裕がなければならない。

 

9 この文章における新しい寄付とはどういうものか。

1 企業が社員や消費者の意思にかかわりなく積極的に行うもの

2 企業が慈善事業のためではなく利益を上げるために行うもの

3 社員や消費者が手軽に寄付ができて企業側にも利点があるもの

4 社員や消費者が気がつかないうちに社会貢献に参加できるもの

BÀI ĐỌC SỐ 26 – N2

「実は、〇〇と 関係があるのですよ。それに思いついてできたのです」どうしても解けないでいた問題を先に解いた人から言われ、それだったら、自分のほうが経験が豊富だ し、知識があるし、「俺にもできたはずなのに……」と悔しい思いをうることがある。アイデアにしても、「このぐらいのアイデアだったら、自分の考えついて もおかしくないのに」と思うことは結構、多いものである。

記憶力には、覚える力と引き出す力の二つがある。いくら覚えても、それを引き出せなければ役に立たない。しかし、覚えていないものは引き出しようがない。つまり、その両方を鍛えないと、記憶力は生きてこないのである。

(中略)

コンピュータは一人の人が覚えきれない、そもそも普通なら出会うこともない膨大な情報を記憶しており、われわれはそれを検索エンジンによって、検索引き出 せる。しかし、人がある問題解決をしている時は、そうしてコンピュータから引き出した知識が、短期間にせよ自分の頭の中に、それまでもっていた知識ととも に記憶構成されなければ役に立たない。

コンピュータがいくら豊富な知識を内臓(注1)していても、人間自身がそうして検索した知識を、覚え、関連づけ、再び引き出すという訓練をしていなければ、宝のもし腐れ(注2)である。では、どうしたら、そういう関連して引き出せる記憶とすることができるか?

記憶力を鍛えるいろいろな本が書かれているが、残念ながら、私には特効薬があるとは思えない。

が、まず、覚えるときに、理解して覚えることである。理解して覚えたことは正しく出てくる。例えば、問題を解く時でも、「あ、これは昨年解いた問題と似て た問題だ」と気がついてすらすら解けることがある。しかし、昨年解いた問題をしっかりと理解していないと、関係がわからないために脳の中で連結(注3)することができないのだ。うろ覚え(注4)ではどこかに穴ができて、あとで活用することができない。

つきに、どんなことを読んだり聞いたりしても、自分の知っていること、経験したこととの関連を思い浮かべることだ。いつも、「もしそうなら」とその役立ち方について想像を膨らませながら新しい知識を覚えることである。それが知識への感受性(注5)をたかめる。

記憶をアイデアや創造という問題解決に生かすためには、一つ一つを覚えるときに、「わかった」と「もしそうなら」からスタートすることであろうか。

 

(注1) 内蔵(ないぞう)

(注2) 宝のもち腐(くさ)

(注3) 連結(れんけつ)

(注4) うろ覚え:はっきりと覚えていないこと

(注5) 感受性(かんじゅせい)

 

1 筆者は「俺にも出来たはずなのに……」と述べているが、出来なかった理由をどのように考えているか。

1 自分が記憶した方法がその問題の解決に合うものではなかったから

2 自分の今までの経験や知識をその問題を関連づけられなかったから

3 自分の方が経験や知識があると思っていたが実際はそうではなかったから

4 自分では記憶したつもりでいたことが情報として蓄積されていなかったから

 

2 筆者はコンピュータの例を挙げて何を言おうとしているのか。

1 人間は一人一人が持つ情報量はコンピュータの情報量を到底超えることができない。

2 人間は一人一人が持つ記憶力は情報量の豊富なコンピュータを利用することでさらに生かせる。

3 人間は問題を解決する過程は、コンピュータが膨大なデータから必要な情報を引き出す過程と同じだ。

4 人間は問題を解決するにはコンピュータのように知識や情報を持っているだけでは不十分である。

 

3 筆者は記憶力を鍛えるにはどうすればよいと述べているか。

1 新しい知識を理解して覚え、自分が知っていることと関連される。

2 自分がこれまでに経験したことや膨大な情報をしっかり理解する。

3 新しい問題を繰り返し解いて、自分の理解を確認しながら定義される。

4 自分が考えついたアイデアを理解として覚え、必要なときに引き出す。

BÀI ĐỌC SỐ 25 – N2

「携帯電話をお持ちのお客様は、マナーモードではなく、必ず電源からお切りください」というアナウンスが流れました。すると私の近くにいた60代くらいの女性達が,「電源を切ったって、どうやって切るのよねえ。」と言い合っていたのです。

その話を聞いて私は、「知らないの?」と驚くと同時に、「そうだったのか」と思ったのでした。劇場などで携帯を鳴らしてしまうのは、比較的高齢のかたが多いものですが、不注意で電源を切らないのではなく、単に「知らない」だけだったのかも、と。

 

何を知らないのか。

1 携帯電話のマナーモードと電源を切ることの違い

2 劇場では携帯電話の電源を切るというマナー

3 携帯電話の電源を切る場合の操作方法

4 劇場で携帯電話を切る理由

BÀI ĐỌC SỐ 24 – N2

四十代の大台に乗ったとき、四十代は早いよ、と言われた。五十代はもっと早いと言われ、全くそれは正しかった。あと二年余で還暦(注1)だってさ。ウッソー、と若い人を真似て言ってみるだけれど、その言葉はもう使われていないそうだ。

十歳の時の一年は全人生の十分の一だから結構長い。しかし五十七歳の一年は、五十七分の一の分量しかない。

結局、時間の感覚は、記憶で作られている何かに比較されて、長く感じたり短く感じたりするのかも知れない。同じ大きさの太陽が中天と山祭(注2)ではまるで違って見えるように、知らず知らずのうちに、自分の記憶の総量を目盛りにして、今を測っているのだろう。

 

(注1)還暦:60歳のこと

(注2)中天と山祭:空の一番高いところと山の端の日が沈むところ

 
この文章によると、四十代より五十代はもっと早いのはなぜか。

1 四十代より五十代のほうが記憶がはっきりしなくなっているから。

2 四十代にも見えない若々しい人が五十代に見えるわけがないから。

3 四十代の一年は人生の四十分の一だが、五十代は五十分の一だから。

4 四十代よりも五十代のほうが還暦に近いから。