Entries by tran cong

BÀI ĐỌC SỐ 34 – N2

チンパンジー明らかにうそをつく。ふたのある箱を左右に一個ずつ置き、仕切りの向こうでこっちを見ているチンパンジーの目の前で、例えば左の箱にチンパンジーが好きなバナナを入れて、ふたを閉める。 やがて飼育人がやってくる。あらかじめ(注)チンパンジーには、この飼育人はよい人で、バナナの入った箱を指すと箱のふたを開けてバナナを取りだし、チンパンジーに渡してくれると教えてある。チンパンジーは嬉しそうに、バナナの入った左の箱を指す。 けれど、あらかじめ「悪い」と教えてある飼育人、つまりバナナをチンパンジーにくれないで自分で食べてしまう飼育人がやってくると、チンパンジーはうそをつく。チンパンジーはバナナの入っていない右の箱を指すのである。   チンパンジーが右の箱を指すのはなんのためか。 1 飼育人に教えてバナナをもらうため 2 飼育人に教えてバナナを食べさせるため 3 飼育人をだましてバナナをもらうため 4 飼育人をだましてバナナを食べさせないため

BÀI ĐỌC SỐ 33 – N2

これはビジネス文書に限ったことではないのだが、何であれ文書を書いていると、少しばかり緊張感 これ、ひどく下手な書き方じゃないだろうか。これで分かるかな。そういう気がしきりに(注1)し て、ちょっとしたプレッシャーになっている。だからこそ、文章を書くのは苦手だ、と思っている人もいるのじゃないだろうか。しかし、その逆もまた真であ る。文章を書く面白さとは、そういうプレッシャーを感じながら、なんとか諸問題をクリアして、一応のものを書き上げることにあるのだ。 テレビゲームが楽しいのと同じ理屈(注2)である。あれは、攻略する(注3)のが簡単ではない様々な障害をかわしながら(注4)、次々に問題を解決していって、なんとかクリアしていくところが面白いのである。むずかしいからこそ、うまくやったときに楽しいのだ。 文章を書くのも、①そういうことである。これでいいのかな、と一抹の(注5)不 安を抱えながら、なんとか書いていくってことを楽しまなければならない。別の言い方にすると、文章というものは、書く人に対して、うまく書いてくれ、と要 求してくれるのである。なぜなら、文章とは人と人とのコミュニケーションの道具だからだ。この例外の文章は、必ず、書く人間のほかに、②読む人間がいて完成されるのだ。そして、書いた人の伝えたかったことが、読んだ人にちゃんとわかってこそ、文章は役をはたしたことになる。   (注1) しきりに:何度も (注2) 理屈:ここでは、考え方 (注3) 攻略する:うまく解決する (注4) かわしながら:避けながら (注5) 一抹の:ほんの少しの   4 筆者は、文章を書くときに何がプレッシャーになっていると述べているか。 1 このまま最後まで書き上げられるか不安だという気持ち 2 読む人が期待する書き方をしているかという気持ち 3 自分は字を書くのが下手だから嫌だという気持ち 4 書きたいことがうまく書けているかという気持ち   5 ①そういうことであるとはどういうことか。 1 様々な障害をクリアしていくことがむずかしい。 2 プレッシャーを忘れ、いろいろ考えるのが楽しい。 3 苦労して問題を片付け課題を仕上げるのが楽しい。 4 不安を抱えたままでは問題解決するのがむずかしい。   6 ②読む人間がいて完成されるとはどういうことか。 1 文章の価値を決めるのは読み手の存在だ。 2 文章が成立するには読み手の存在が必要だ。 3 文章は人に読まれることでよりよいものになる。 4 文章は読み手の要求にこたえることでできあがる。

BÀI ĐỌC SỐ 32 – N2

現代は、①時間がどんどん加速されているとも言われます。何事にも「早く、早く」とせかされ(注1)、時間と競争するかのように忙しさに追われていることを、大人たちはこういう言い方をしているのです。いつも同じ速さで時間が流れているはずなのに、時間の間隔が短くなったような気分で追い立てられて(注2)いるためでしょう。それをエンデ(注3)は「モモ」という作品の中で「時間どろぼう」と呼びました。ゆっくり花を見たり音楽を楽しんだりする、そんなゆったりした時間が盗まれていく、という話でした。②いつも何かしていないと気が落ち着かない、現代人はそんなふうになっています。その一つの原因は、世の中が便利になり、能率的になって、より早く仕事を仕上げることがより優れていると評価されるようになっているためと思われます。競争が激しくなって、人より早くしなければ負けてしまうという恐れを心に抱くようになったためでしょう。「時間はお金より」となってしまったのです。 しかし、それでは心が貧しくなってしまいそうです。何も考えずにひたすら決められたことをしていて人生が楽しいはずがありません。ゆっくり歩むからこそ、道ばたに咲く花に気づいたり。きれいなタ日を楽しむ気分になれるのです。私たちは、時間を取り返し、もっとゆったりした時間を生きる必要がありそうですね。   (注1) せかせれる:急がされる (注2) 追い立てられる:ここでは、何かをしないではいられない気持ちにさせられる (注3) エンデ:ドイツの児童文学者   1 ①時間がどんどん加速されているとはどういうことですか。 1 しなければならないことが多くて時間が短く感じられる。 2 何かに夢中になっていると一日の時間が短く感じられる。 3 作業能率が上がって一日の仕事の時間が短く感じられる。 4 技術の進歩によって仕事にかかる時間が短く感じられる。   2 ②いつも何かしていないと気が落ち着かない原因を筆者はどう考えているか。 1 何もしないと心が貧しくなってしまうと感じること 2 早く何かを仕上げないと他の人に勝てないと思うこと 3 矢った時間を取り戻さないと競争に負けてしまうと思うこと 4 奪   3 筆者は、時間の使い方についてどのように考えているか。 1 時間は貴重なので、休むときにも能率的に過ごしたほうが良い。 2 忙しい中にも、のんびり過ごす時間をできるだけ持ったほうが良い。 3 人生を楽しむためには、ひたすらゆっくり時間を過ごしたほうが良い。 4 人との競争に勝つためには、時間をもっと有効に使うようにしたほうが良い。

BÀI ĐỌC SỐ 31 – N2

いつも疑問に思うことがある。①誰もが「日本」や「日本経済」を問題にすると、それはどうしてなのだろう、ということだ。テレビの討論番組などでも、雑誌や新聞の特集でも、問題とされ、議論の中心となるのはたいてい「日本」だ。日本はどうすればいいのか、日本は元気になるために何が必要なのか、日本経済の再生のためには何が足りないのか……。 日本は変わらなければならない、というようなことを言う人を見るたびに、「どうやって変えると言うんだ、そんなことを言う前に②お前が変われ」と思う。活力やビジョン(注1)を失っているのは、一人一人の個別の人間であり、企業であり、自治体や地域ではないのか。たとえばわたしの故郷の佐世保市や長崎県は、七〇年代から続く造船不況の影響もあって、帰郷するたびに寂れていくのがわかる。 だが、「佐世保市や長崎県の経済をどうやって再生するのか」とは誰も問わない。造船業をどうやって再生するかという議論も見たことがない。個別の企業、たとえばダイエーのように巨大な有利子負債を抱えた企業をどうやって再生すればいいのか、答えを示すエコノミスト(注2)はいない。産業の問題だけではない。たとえば教育でも、荒廃しきっている個別の学校やクラスのことは具体的に問題になることがない。ナイフを出して向かってくる児童生徒に対しては自衛のための暴力が許されるのかどうか、そういった議論もない。 「日本」の問題は解決すれば、個人の問題も、個別の企業の問題も、個別の自治体の問題も解決するのだろうか。長崎県やダイエーの経済的再生よりも、「日本」の経済的再生のほうが簡単のだろうか。 最近わたしは、「日本全体」のソリューション(注3)について議論する人たちが胡散臭く(注4)思えるようになってしまった。個人や、個別の企業や自治体についてのソリューションを口にすれば、何らかの形での「責任」が発生する。だが、日本のこと、日本経済のことは、いくら批判したり提言したりしても、責任を取る必要がないのである。   (注1)   ビジョン:将来への計画 (注2)   エコノミスト:経済の評論や分析の専門家 (注3)   ソリューション:解決方法 (注4)   胡散(うさん)   1 筆者によると①誰もが「日本」や「日本経済」を問題にするのはなぜか。 1 これが解決すれば個別の問題も解決するから 2 発信に責任を取らなくてもいいから 3 この問題のほうが簡単に解決するから 4 誰にも責任のある重大な問題から   2 ②お前とはだれのこと。 1 テレビの視聴者や、新聞、雑誌の読者 2 話を聞いている筆者 3 日本全体についての意見を述べる人 4 元気をなくした一人一人の個別の人間   3 筆者がこの文章で一番言いたいことはどんなことか。 1 日本全体を議論しても、具体的な個別の問題は解決しないのだから、そんな議論をするのは無責任だ。 2 個別の問題についてひとつひとつ解決しても日本全体はよくならないが、日本全体についてもっと真剣に議論すべきだ。 3 日本全体が変われば、自動的に個別の問題も解決していくのだから、人々は責任を持って批判や手遺言を行うべきだ。 4 日本全体について議論することは大きな責任をともなうが、日本経済のことについては、誰も責任を取る必要はない。

BÀI ĐỌC SỐ 30 – N2

欧州の研究チームが、5万年前の装身具をスペインの洞窟 今の人類が欧州に広がったのは約4万年前。ということは、入れ替わるように衰勢となった①ネアンデルタール人が貝細工(注4)を残したことになる。絶滅の理由は知能の未発達とされてきたが、実はそこそこ知的で、おしゃれだったのではないか。 狩猟のための石器と違い、生存に関係のない装飾品には遊び心がのぞく。動物の骨や歯、木の実なども使ったことだろう。森や浜で、あれこれ見つくろう姿が浮かんでくる。 さらには顔料である。高橋雅夫氏の『化粧ものがたり』によると、古代人にとってオレンジ色は②特別な意味を持っていた。それは、恐ろしい闇を追い払ってくれる朝日の輝きであり、暖をとり、獲物の肉を焼くたき火の色だった。喜びと幸せの色だ。 水面に映る己の姿を見ながら、貝殻で飾り、顔や体を祝いの彩りに染める。彼らが生存競争に敗れたのは、足りない知恵のせいではなく、あふれる優しさが災いした(注5)のかもしれない。驚きの発見に推論を重ねて、あるところからは想像の一人旅。考古学の愉悦(注6)である。   (注1)   貝殻:会の外側に硬い部分 (注2)   顔料:物に色をつけるために液体や粉 (注3)   おぼしき:思われる (注4)   細工:工夫して作った物 (注5)   災いする:悪いことの原因となる (注6)   愉悦:楽しいこと     7 ①ネアンデルタール人が貝細工を残したことになると考えられる理由は何か。 1 ネアンデルタール人は5万年前に絶滅したから。 2 今の人類は4万年前には知能が未発達だったから。 3 ネアンデルタール人は知能が未発達だったから 4 今の人類は5万年前にはいなかったはずだから。   8     ②特別な意味とはどういう意味か。 1 遊びの気持ちを表す意味 2 心の優しさを表す意味 3 光や暖かさを表す意味 4 生活の豊かさを表す意味   9     筆者は、ネアンデルタール人の知能についてどう教えているか。 1 今の人より知能が高すぎたために生存競争に敗れ、絶滅してしまったのだろう。 2 その知能の水準についてわからないことが多く、研究が更に進むことが期待される。 3 今の人よりおしゃれで性格が優しかったのは、知能が低かっただろう。 4 知能が未発達だったと言われているが、思ったより知的だったのではないか。

BÀI ĐỌC SỐ 29 – N2

おしゃべりに使うことばには、流行語と言われるものがある。若者同士のおしゃべりには欠かせないものである。流行語を使うことによってしか伝えられない彼らの気持ちがある。おしゃべりについて考えるとき、彼らのことばを無視できない。 日本人の大学生にも日本語学などを教えている手前、彼らとのおしゃべりは、私にとって研究のネタ(注1)の大事な取材(注2)の場でもある。 しかし若者のことばづかいについて、いろいろ①批判的に言われることがある。「ことばの乱れ(注3)」とか、「日本語を破壊するもの」とか。 ことばは変化することが本質である、と昔の偉い言語学者が言っている。変化するけど、誰かが変えようと思っても、変えることはできない。逆に、変化させまいとしても、そのままの形を保たせることは決してできない。 ②そうであれば、彼らのことばを一方的にダメなものとして見るのではなく、ことばの面白さを表すものとして考えることもできるだろう。   (注1)     ネタ:材料 (注2)     取材:現場で情報を集めること (注3)     乱れ:正しくなくなること   1 若者のことばが①批判的に言われるのはなぜか. 1 日本語を変えようとしているから。 2 昔のままの日本語と違うから。 3 気持ちをうまく伝えられないから。 4 誰もことばを変えられないから。   2 ②そうであればとはどういうことか。 1 ことばは変化させようとしても変化させられないのであれば、ということ 2 ことばは変化させないでおくことはできないのであれば、ということ 3 ことばはそのままの形を保たせるべきものなのであれば、ということ 4 ことばの変化は違い言語学者が作り出すものなのであれば、ということ   3 筆者は若者の使う流行語について、どのように考えているか。 1 日本語を壊す可能性があるので、よく考えて使わなければならない。 2 変化が速く、すぐ消えてしまうので、急いで研究しなければならない。 3 ことばというものは変化するものだから、その様子を楽しめばいい。 4 若者が大人になれば忘れられる一時的なものだから、無視してよい。

BÀI ĐỌC SỐ 28 – N2

言うまでもないことだが、話を狭く学力だけに限って、それが高いのと、低いのとではどちらがいいか,という問い方をすれば答は明白である。それは高いほうがいいに決まっている。テストをやって、一○○点を取るのと、八〇点取るのとではどっちがいいでしょうと言ってるのと同じだ。それは一〇〇点を取るほうがいいのであり、それが可能かな、ということを調べるためにテストってものがあるのだ。 しかし、問い方を変えれば答はサンプルではなくなる。テストで一〇〇点を取る子と、八〇点しか取れない子では、どちらがいい子だろうか、と考えてみるのだ。 それだと、いちがいに(注)は①答えられない、という答になるはずである。 どちらがいい子か、という総合的評価ならば、テストの結果だけでとてもではないがあれこれ言えるはずがないのである。 それどころか、一〇〇点を取る子と、八〇点を取る子では、どちらが頭がいいだろうか、という問いにしてみても、そう簡単には答えられない。そのテストにおいては、一〇〇点取った子のほうが成績がよかった、というのは現実だが、頭がいいかどうかはそれとは別のことなのである。 そうは思えない、という人がいそうだ。テストでいい点を取ったのだもの、それは学力が上だということであり、そのことをもって頭がいいと認めてやるしかないじゃないか、と思う人が。 ②そういう人に私が聞いてみたいのは、あなたは、学力ってものを知力のことだと思っているんじゃないですか、ということだ。 (注)いちがいに:一度にまとめて同じように   3 ①答えられないのはなぜか。   1 テストではその子についての総合的なことがわからないから。 2 100点と80点の差は学力を決める時あまり大きな違いではないから。 3 テストの結果というものは、ひとことで説明できないものだから。 4 テストで100点を取るほうがいい子であると決まっているから。   4 ②そういう人はどんな人か。   1 テストの点がいいことは頭がいいことだと認められない人 2 成績がいいことと頭がいいことが同じことだと思えない人。 3 テストでいい点を取ったことがあって、頭がいいと認められた人 4 テストでいい点を取っることが頭がいいことを意味すると思う人   5 この文章で筆者は言いたいことは何か。 1 成績がいいことは学力があることを示している。 2 成績がいいこと頭がいいことは別のことだ。 3 テストの点がいいことと成績がいいことは別のことだ。 4 テストの点がいいことは頭がいいことを示している。